昭和52年01月13日 朝の御理解
御理解 第81節
「氏子十里の坂を九里半登っても安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへ降りたらそれで安心じゃ、気を緩めるとすぐに後へもどるぞ。」
もう一押しというところが何をしても一番大事な所です。所謂もう一辛抱というところで、繰り返し繰り返しになってしまう様です。又もう一押しという時に確かに邪魔が入りやすいです。いわゆるお試しと言うても良いかも知れませんね。一つの事が成就する、成就しようとするかに見えますけれども、その寸前に挫折せなければ成らない様な事が起きて来たりするんです。特に信心をさせて頂く者はここの九里半まで登った時を一番大事にせなけりゃいけません。
そのあと一押し、まあ一登りと言う所で挫折するのです。そこで昨日の御理解ではないですけれども、いつも心の状態がにこやかな状態。昨日ある方が御祈念の後にお参りされて、昨日の朝の御理解を頂いて、本当に別に何でもないのにわけもないのにイライラする事がありますと言う。皆さんそんな事が有りますでしょう、訳も無いのに何か腹立たしい、訳も無いのに腹立たしい、何かにこう当たり散らしたい様な、これはね結局は信心の未熟な時です。信心が本当に出来れば、合楽で言われる合楽理念といった様なものが段々分かって来ると、そういう事は無くなってくる。
そこをさせて頂いた上にさせて頂いておらんと【聞き取り不能】これは一つの事が成就する、これはそれでよいという事ではない。向こうへ降りたら安心じゃというのは、これはまあ言うならどういう事でしょうかね、大きく言うたら一生の事だろうと思うです。安心して良いという事は一つも無い。むこうへ降りたらというのはあの世え行ってから安心、いやあの世に行ってからでも実を言ったら安心は出来ません。限り無くおかげを頂こうと思う、限り無く有り難う成って行こうと思えばね。
昨日、熊本から矢野という先生が見えとります。言わば聴講に見えてる訳です。まあ合楽のお話を聴こうというのです。先日から大阪の阿倍野教会にお出(いで)ておられた。まああちらの御比礼は名実共に日本一と言われる程しの教会ですから、そりゃあ大変な教会である。そこの先生のお取次ぎをなさっとられるのを見ると、いつでもにこやかであるという事です。もう本当に、もう何時もにこやかである。それが作ったにこやかではなくて、もう心からにこやか。
どういう様な問題でも有りましょう、どういう事でもありましょうけれども、それが先生の場合は一切がもう神愛として受け切っておられるんであろう、もう神様の下さるのものとして頂き切っておられるのであろう。それを五十数年間お取次ぎの御用、丁度去年のお正月に出されておる御本を、まあ、あちらからのお土産でしょう一冊私が頂きました。それを読ませて頂きますと、去年のお正月が八十二才であんなさるから今年は八十三になっとられる筈。
その御ひれいと去年のお正月には汽車三輌、阿倍野からお参りになさったそうです。(御本の中に御本部参拝の様が載ってるのを拡げて見せながら)これが阿倍野の参拝者。これが第一部でこれが二回続いてあった。あの御本部参拝の模様。御本部のあの広いお広前をもう埋め尽くしてある。女の方のたった一人の信心がね、こんなに素晴らしい事になって来とる。どこにあの御比礼の基が有るだろうかと、どこにこんなに人が沢山集まる基があるのか分からん。
なかなか分かるもんじゃ無いけれどもです、矢野先生がまあ頂いておられた所は、何時も先生がにこやかであられるという事なんです。私は昨日の御理解を頂いてから、改めてそうだろうとこう思いました。だからしかもそのにこやかと言うても、そのにこやかの度合いと言うか深さと言うか、広さと言うか又限りが無い事だから、そういう限り無いものに取り組んで行くのですから、休み等があって良かろう筈がありませんよね。
昨日の御理解の中でも申しました様に、顔だけがにこやかであって心がにこやかでなからにゃならん。心で腹が立っとるけど、顔色だけニコニコしとると言うのではいけない。心からにこやかにしておれれるという事がです、しかも私は昨夜(ゆうべ)遅う出て参りましたら、この本が有ったから昨夜とうとうこれ一冊読んでしもうた。一時頃迄掛かった。別に大した変わった事を仰っとられる訳じゃ無いですけど。
カンテラに一杯油が有っても芯が無ければ火が灯らないと言う、その火も芯が小さかったら小さい光だと芯が大きければ大きな光ですと書いてあると、話しとられます。だから此の芯は限りがないのです。いつもにこやかにしておれれるその度合いというものがです、もう限りないものです。その去年の元旦祭の後のお説教の中にこういうお話をなさっとられます。[荒波の 逆巻く灘を乗りしくも 船に真舵の あればなりけり]
荒波の逆巻く灘を乗りしくも船に真舵のあればなりけり]、と有ります。どんなに例えばお徳を受けられた先生だからと言うて、やはり雨か嵐じゃろうかという様な時もあろうけれども、真舵をいわゆる、舵の取り損ないさえせなければ大丈夫だというのです。真の舵というものを握っておるから、どういう逆巻く波の中でも乗り切って来たと、こう、それこそにこやかに乗り切って来られたという事なんです。その真舵というのが只金光様というだけではいけん。
いわゆる絶対のものを把握しとかなければならない、それをなら繰り返し繰り返し体験させて頂いとられる内に、一切がおかげであるという風に分かられて来られたところに、どういう事が起こって来ても何時でも、ならにこやかにしておられなさる訳であります。ですからね、もう一押しというところでです、此処をにこやかに通らなければならないところをです、九里半のところで言うならば、又失敗したと言うと同しところをやっぱり繰り返さなけりゃならない。
このお話の中に、第一に親神様は氏子に対して[体の丈夫を願え、体を作れ、何事も体が元なり]という事を教えておられるが、私達の心が神様に向かいますと、教会へお参りが出来る様になります。そして有り難い御教えを頂く事が出来ます。日参と聴教に依ってね教えを聴くこと、聴教に依って何が分かるかと申しますと、神様のお心が分からせて頂く様に成ります。
天地の親神様が私達に対してどういうお心であらせられるか、その神心が分かります、と言うて、第一に神様は氏子の健康を願うて下さるという事を話しておられます。皆さん毎朝お参りをしてお話を頂いて、神様のお心が分かる様になると、神様のお心が分かる様になりよるでしょうか。次にはね、次は豊かな生活、自分の子供が豊かな生活をしてくれるようにと望まぬ親は有りません。年末の支払いは済んだかな、正月の用意は出来たかなと心配するのが親の心です。
その様に親神様は氏子の豊かな生活を望んでおられます。そこに神様の御心に適うような、借金が有ったら綺麗に返させて頂く事を願うのです。借金が綺麗に返せたら、三カ月の蓄えが出来る様に、三ヵ月の蓄えが出来たら三年分が出来るようにとお願いして行くのですと、この辺の所が中々変っとるですね。借金が有ったら借金が払える様に願え、借金が払えたら次にゃ三カ月間はゆとりの有る様なおかげを願え、次には三年間の、いうならば合楽で言うその日暮らしではいけないという事です。
合楽では本当にその日暮らしという事が大変有り難い事として説かれております。もう間違いの無い、神様にお縋りしときゃ、もうぎりぎりでもちゃんと神様がおかげを下さるお繰り合わせを下さる。そこで神様の働きを信ずる力が段々付いて参りますけれどもね。やっぱそれだけではいけない、そこが一つ出来たら三ヵ月間はゆとりがある様に願え、次には三年間蓄えが出来る様に願えとこう言う。そういうやはり、願というのはそのまま神様の又願いでもあるという事であります。
私共の願いじゃない、そのまま神様の願いである。暮れともなったら、ああ借金払いが出来たじゃろうか、ああ正月が来たが正月を迎える事が出来たじゃろうかと、子供の事を心配するのが親である様に、親神様もまたそれを願い心配しておって下さるんだというのです。そういう例えばおかげを頂く為にです、私共がね今日は私は九里半登ったら、十里の坂を九里半登ったら安心してはならないという事を、その九里半の所にもう必ずと言うてよい程、言うなら邪魔が入るという事を、一つ今日は聞いて頂きたいのです。
言うならそれをお試しと言うても良いでしょう。そういう坂を私は乗り越え乗り越えして行くところの信心が必要です。[坂を越え 坂を越えても 峠かな」一山越えたら又次の一山、そうすると信心とは大変きつい事かというとそうではなくてで、それを楽しう出来れる生き方がいま合楽理念に説かれてあるのです。有り難うなる楽しうなる生き方を身に付けていく事です。
一つの願を立てる、その願が成就する手前のところで必ず挫折せねばおれない様な問題にぶつかったり、障害がいわゆる邪魔が入ったり致します、そこんところを今日は一つ大事に頂いていかなければならない。ここの所を頂きませんと、もう手前のところで何時も同じ所で失敗し失敗しして先の方には進まれん事になります。だからそれを一つ一つ自分の物にして行く事のおかげを頂く事の為にです、何時もにこやかでおられる内容を頂いとかなければならない。
いわゆるにこやかにそれが受けて立たれる生き方を身に付けておかなければならない。それを合楽では今、心行という事を言っております。やれやれ安心という所に、言わば十里の坂を登り切らずで終わってしまわなければならない。どうでも一つの事が願えたら、なら先生が仰っとられる様に借金払いが出来たら三ヵ月、三ヵ月はゆとりの有るようなおかげを頂く様に願え。三ヵ月のおかげゆとりが出来る様になったら、次には三年間はゆとりがある様に願え。
これはもう限りがないことです。一億円のゆとりが有るおかげを頂いたら、五億も十億ものゆとりのあるおかげを頂かして頂く事を願う。そういう豊かな生き方が出ける事を神様は願うておられるのだというのです。だから限り無いおかげに挑戦する。挑戦と言うと大変きつい様ですけれども、それを楽しく限り無く続けていく為には、私共がたった第一回目のその九里半の所で何時も挫折する様な事であってはならない。それはどういう事かと言うと、お参りはしておる御理解は頂いとるけれども、神様の心が分かっていかんから失敗するのです。
又はどういうなら雨だから嵐だからという様な時であっても真舵を取り損なわない様にしていけば大丈夫。[荒波の 逆巻く灘を 乗りしくも 船に真舵の あればなりけり]と、私はここん所の信心が私は頂けるという事が、まあ信心の愈々お徳を受けて行く第一義だと思う。真舵をまず頂く、絶対のものをそこに頂く、どういう事が有ってもそれを神愛と信じ切れれると言う、言うならば真舵、そこに言うならば何時もにこやかでおれれるおかげ、先生とても初めからそのにこやかな事ばっかりじゃ無かったろう。
けれども体験を積んだ上にも積んでいかれて行く内にです、此処を乗り越えたら素晴らしい世界が開けて来る事を、度々乗り越え乗り越えなさって行く内に、そこの体験が生まれてきた所に、どんな場合であっても何時でもそれこそ微動だもない、何時もにこやかにおれれる内容ができて来る。今日は一つ九里半登っても油断をしては成らないという所を、必ず後もう僅かという所で邪魔が入るという事を聞いて頂いたんです。だからその邪魔が入る所を有り難く受けていけれる信心を頂きたい。
それには一つ真舵をしっかり自分なりの真舵を頂いておかなければならん。舵を取り損なわん様にしなければならん。真舵があればこそ、その逆巻く灘も乗り越える事が出来るのです。言うならば九里半登ってももうすぐそこに峠が見えておる所で邪魔が入るそこで挫折する、又初めからやり直しといった様な事のない様な信心を身に付けて、今日からは一つね、その日暮らしも有り難いけれども、その日暮らしではない、言うならゆとりのあるこの願を三ヵ月から三年、三年から五年という様にね、一つおかげを頂いて行く、それが神様の願いでもあると言われるのですからね。
どうぞ。